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アールヌーヴォーの巨匠、ミュシャ
アールヌーヴォーの旗手から巨匠へ
チェコ出身、またゆかりある音楽家、文学者と続いたところで、最後に美術方面。
ドヴォジャークやスメタナ、そしてカフカらが意外に日本で親しまれているように、同様に日本になじみぶかいチェコ出身の画家がアルフォンス・ムハ(1860~1939)。Alhonse Mucha と綴れば気付けるように、日本ではフランス語読みの「ミュシャ」で知られる。
アール・ヌーヴォーの旗手として20代後半からパリで華々しく活躍しただけに、チェコ出身というのが意外に思える。40代後半にアメリカに渡った後、50歳以後はプラハに戻って活動した。
アールヌーヴォーだけでないミュシャ
ミュシャといえばアール・ヌーヴォー、リトグラフ、妖精のような美人画・・・の印象が強いのだけれど、それだけではない。
パリ、アメリカと渡り住んだ後、帰国後の晩年には20年近くかけて20点もの連作「スラブ叙事詩」を描き上げた。なじみあるアールヌーヴォーの絵柄でなく、スラブ民族一千年の栄光と苦難の歴史を表現しようとした、ムハの魂が込められた代表作である。現在は事情あってモラフスキー・クルムロフに展示されているが、本来の寄贈意図であったプラハへの里帰りも現実的に進められているようである。
先に、カフカ編で「僕にはカフカとチェコが最初、うまく結び付かなかった」と書いたが、ムハはそれ以上にチェコ(プラハ)との接点が想像しにくい。晩年は切手や紙幣のデザインをはじめ、祖国チェコのために積極的に身を擲って活動したというにもかかわらず。
ミュシャの表現活動がチェコ民族の自由と民族心を鼓舞させるとしてナチスの目にとまり、1939年、ムハは厳しい捜索・尋問を受ける。チェコスロヴァキア解体後、後のチェコ独立を見ることなく同年7月に病死した。
ムハとチェコが結び付きにくいのは、パリ、アメリカでの活躍が印象深いせいもあるが、晩年のこの活動のせいも大きい。その後の共産党政権にとって、ムハは愛国心を増長させる人物として公然とは認めなかったせいだという。
聖ヴィート大聖堂内のステンドグラス
アールヌーヴォー様式の装飾が美しく、国文化財にも指定されているホテル・パジーシュ
現在、プラハで見ることのできるムハの代表的作品は、アール・ヌーヴォー建築の市民会館内にある正面ドームの壁画と、そして何より有名なのがプラハ城内聖ヴィート大聖事情堂内のステンドグラス。
聖ヴィート大聖堂は当初、ロトゥンダ(円形教会)としてヴァーツラフ1世により930年に建てられ、その後にバシリカ(会堂式)、さらにカレル4世によりゴシック建築に建て直された。
これはチェコの他の建築物にも共通するようだが、改築の都度に様式を変えてゆく。現在の威厳ある聖ヴィート大聖堂がロトゥンダ(円形教会)だったとは想像し難い。また、完成までに気の長くなるような年月を要することが珍しくなく、ヴィート大聖堂も完成は聖ヴァーツラフ生誕千年祭の1929年のことであり、実に千年近くを要したことになる。
けれども19世紀ガラス工が窓にステンドグラスを用い、ムハがデザインすることができたのも、まさにこの工事の遅れのおかげともいえる。
ヴィート大聖堂内の壁面はそれこそ世紀のステンドグラス展とも呼べるほど様々な意匠の美しいガラスが並んでいるのだが、その中でも一番人気が西入口左から3番目のミュシャによるもの。ひときわ芸術性の高い美しさで、アールヌーヴォースタイルの妖艶な輝きを放っている。
題材はギリシャの伝道師「キュリロスとメトディウス」。2人の聖人の布教活動が描かれている。
キュリロスとメトディウス・・・。もし、このブログを丁寧に読んでくれている方がいるなら「どこかできいたような名前・・・」と思い出してもらえるかもしれない。そう、本棚に収録した『物語 チェコの歴史』の第1章に登場する人物。
続きは次回。
2007-09-29









