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たずねられるということ

仕事とは問いの連続

仕事をする上で、ものを「尋ねる」「訊ねられる」って大切だ。というより、当たり前だ。「どうする?」疑問→相談→思案・調査・協議→試案、提案、解決。仕事は、この連続。仕事に限らず、生きてゆく上で。

以前に何度も別のところで書いているのだけれど、このプロセスを経験するから人は成長する。誰かにたずねられることで、どんな問題(ニーズ)があって、どうすればいいのか、解決できるのか、必死で考える。考える、経験するから成長してゆける。それが難題であるほど鍛えられる。教師が生徒にたずねられることで一人前になってゆくように。

きこえないと、このプロセスに入れない。経験を積めない。何かを問われること、たずねられることが、聴者に比べるとまるでない。僕の場合だけとは思わないが、これは非常に悔しい。「きいてくれればいくらでも答えられるのに」って、いつでも思う。「問題になっているのが何か分かれば、それを解決したい。力になりたい」と思う。でも、そういうケースにめぐりあうことは少ない。

今の職場で誰より長く、平均在籍年数の3倍近くとなる8年目でも。今の職場でも前の職場でもどこでも。全くないわけではないけれど、絶対的に少ない。

例えば、以前のこと、偶然、周囲に誰もいないときにたずねられて、「ああ、こういう問題があるんだ」「ここが問題なんだ」と分かっただけで嬉しかったことがある。それに対して自分で考えるなり調べるなりして答えることで、相手の役に立てるのは無論、「自分も勉強になったなあ」と実感できる。

蚊帳の外

このときは一人だったため、相手からするとやむを得なかった(?)から。これが、周囲にきこえる者がいると、そうはいかない。好んで「きこえない者」にたずねる人はいない。誰だって、ききやすい者(=きこえる者)にきく。ボストン旅行記で書いた機内のケースと同じ。教室という閉ざされた空間の中、数十人もの生徒を相手に、一人だけが優位に対応できる教師のケースとは対極。

余程、きこえない僕に特化した事情がないと、問われることはない。かくして、聴者の中に埋没するろう者。

机を並べる隣で悩んでいることが目に見えていても、たずねられることは少ない。以前の上司は、パソコンの画面上の処理で困っているのが横目でも見て分かったとき、「どうするのか・・・」と思っていたら、たずねるでもなく、きくでもなく、いきなり電源をぶち切って立ち逃げた(まあ、パソコンの操作くらいなら電源を切って済ませられることもある)。

それから、「それって、前任は僕なんだけど」と思うときでも、僕は飛ばされてしまう、別の者にたずねられるケースもしょっちゅう。当事者のつもりでも蚊帳の外。たずねられた方はある意味では迷惑かもしれないけれど、逆に、いい機会をつかめたことになる。本来、きこえない僕にめぐってくるはずのチャンスがするりと逃げていく。別の誰かに取って代わられる。

あてにされない

ただ、「きこえない者を相手にものをたずねる」ということが矛盾しているといえば、そう。「きこえる相手だから、たずねている」──そういわれたら、それまで。普通の人は「よく分かっている、きこえない者」より「よく分かってなくても、きこえる者」を選ぶ。それが分かるだけに、僕も自分からどうしてくれ、とはいえない。いえないが悔しい。虚しい。

きこえる人にとって、きこえない者にものをたずねる、ということが、プライド(自尊心)上、できないからであることも容易に想像が付く。きこえる者はきこえない者に情報を「教えてあげる」のが常であるから、逆に優位に立っているはずの相手に「教えてもらう」なんて・・・。意識はしていなくても、そう出ていることは分かる、感じる。通訳者でさえもそうしたケースはあるくらいだから。

僕自身は、たずねないと分からない身であるから慣れっこであるが、自分より劣位にある者に素直に「教えを請える」人は、そういない。偉い立場でふんぞりかえっている人間ほどそう。僕にたずねてくる人は、それだけで珍しいし、すごいなと思う。僕はびっくりしながら、喜びながら、そして同時に、相手を尊敬する。

誰かにたずねられる、というのは「あてにされている」こと。認められること。けれども周囲にきこえる者がいる限り、代わりがいる限り、きこえない者はたずねられない。あてにされない。認められない。

「ああ、自分は役に立ってない、使えない人間だなあ」

「自分の存在って何なんだろう」と感じる。経験を持てないとスキルアップもできない。キャリアも積めない。年齢を重ねるほど、とてつもない差がついてしまっているなあ、とため息を繰り返す。



2007-04-26


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