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無垢なまでに意味を問う
第3章「『知ってるつもり』じゃないか」では、情報化社会の弊害をあらためて諭し、それへの対処を提案している。
無限に溢れる情報の中で「知っている」「知らない」だけが強調されすぎている現代社会。引き出しの多さを誇ってみても、中は紙片を詰め込んでいるようなもので自らの血肉になっているものでもければ「知性」でもない。
続いての第4章「『青春』は美しいか」では、「青春」という言葉を恥ずかしいものと感じる現代の風潮に疑問を呈し、『三四郎』を引いて「悩む」こと、「意味を問う」ことの必要性を説いている。
3章4章を通じて考えさせられたのは、著者のいう適度な形で「限定」することの提案と、立ち止まって意味を問うこと。
うわべの情報通であろうとすると、「前へ前へ」「次へ次へ」となりがちだ。何冊の本を読んだか? 何度の経験ができたか? 数量を求めてしまう。不都合なことがあっても拘泥せず、むしろ不都合なことはすっ飛ばして「次へ次へ」と新しいものを追い求める。「次こそ」とか、「気分を換える」といった都合のいい言葉が手伝って、無限に用意されている「新しい」「次」を追いかける。
苦悩とは無縁の青春を送っている人が多いことも確か。「私」とか「自我」といったものについてあまり詮索したがらない人達。
それはある意味賢い生き方でもあって、自我の暗がりを探ったりすると、訳の分からない魑魅魍魎が表れてきそうで、それを避けている。
立ちすくむこと、立ち往生して動けないことは決して悪いことではない。自分を限定して、身動きできないくらいに考え抜く機会を持つ。答えのない問いに悩み、意味が分からず不安になる。不安だから意味を問う。でも、それでいい。
悩んでいることは女々しいことでもなければ、さっさと忘れて次のステップに進もう! ばかりでも道は開けない。
「know」と「think」は違う。人生は解のない問いを考え続けることのはずだ。
私は若い頃から悩み多い人間でしたが、中年になっても変わらず、ことあるごとに立ち止まっては考え込んできました。・・・青春の時の要素をいまだに持っているから。「老成」していないから。幼稚ということでもあるのですが、私はそれでいいじゃないかとみずからを慰めています。
漱石とウェーバーも「青春的に老成」した形。彼らほど優れた人でも、一生「青春の蹉跌」みたいなものを繰り返していた。
2008-06-14








